「祈る」空間の建築設計手法

渡辺――
「居る」空間の設計手法は以上を持ちまして、全てお話をしましたので、ここからは、ちょっと位相の違う「祈る」空間、 しかもこれ特化型なので、要は「居る」と「祈る」というのが重なってるんじゃなくって、神社のような空間の設計手法についてお話しします。「祈る」空間の設計手法が大きく2つあって、1つ目は既存の「祈る」空間を更新していく手法です。ここでは、遥拝型の中核を作ることを紹介します。 2つ目は、何もないとこに「祈る」空間を0から創生していく手法です。 ここには、天地型の中核を作るようなものを紹介します。

まず1つ目の前にですね、「祈る」空間について、いきなり言ってもわけわからないので、 どういう風にやっていくかですが、手順が2つありまして、まずは「祈る」空間、中核となるところを作るということで、これは地球感受の空間を作っていきます。 次は、そんなものが真空中に浮いてもしょうがないから、地域の中にそれをどう置くのかっていうことがとても重要になってきます。中核部を地域フィールドに定位させることが必要になります。中核部に関しては、大きく遥拝するタイプと天地型、天と地をダイレクトにつなぐやつの2つがありまして、それについて説明をしたいと思います。

まず、遥拝型ですが、日本の神社はこれが得意でして、例えば左の春日大社、 社殿は変な向きに向いていますが、社地の背後に御笠山があって、その山の端から神様が出てきてるということで、山を遥拝するようなことで神を感受するみたいな話で、こういったものは現在でも具体的に体験できるのが右の写真の石槌神社の中宮成就社の見返遥拝殿というものですが、社殿の後ろにおっきな開口が開いていて、 そこに神体となる石槌山が見えて、空に通じていくというものがあります。逆に、天地型というものはもうこれは大地を囲い込んでそのまま上に天への開きを作っていくようなもので、有名なものはローマのパンテオンがありますが、 日本の縄文時代のもの能登の真脇遺跡のようなものも、大地に円環状に木の柱を立てて、 大地と垂直に空を突き刺して天と地を直接繋ぐようなものだと思っています。



事例ですが、まずは既存の「祈る」の空間を更新していくものとして金峯神社を紹介します。 これは実際ある神社を更新したもので、大学の近所なんですが、高知県香美市土佐山田町にある神社のお話です。 この神社なんですが、谷の棚田集落にある氏神様で、それを反映して、神社の社地は谷の水源の辺りにあります。その水源が信仰されるという非常にノーマルなあり方です。あとこの神社ですが、明治の神仏分離までは座王権現宮と言いました。座王権現とは吉野にある金峯山寺の本尊が蔵王権現ですが、要は吉野系の修験道と何か関係があるんじゃないかということが伺えます。あと村ですが、明治初期までには、9軒氏子さんたちがいました。ただし私が関わった時には、 1軒どころか1名しかいなくって、消滅寸前集落でした。ただし、ここに希望が若干あるのは、元々の氏子さんがどっかめっちゃ遠いとこに行ってるんじゃなくって、近隣の村落には居住してるということがあったので、この1名だけじゃなくって近隣には、引っ越した人も神社が続くことを非常に強く望んでいたということがありました。


この神社ですが、存続を望むということは「やばい」ってことですよね。実際は、2014年に台風が来て、結構大破してですね、礎石から柱がずれ落ちて開かずの社殿になって しまっていたということがあります。ただ、中には江戸時代に建てられた春日造りの社殿があって、これ含めてどうにか守っていかなきゃっていう状況があったわけです。金峯神社は、実は空間的な特色がすごくあって、極めて急な石段からの山道から社殿を見ると、 奇妙にずれた角度で社殿が配置されてるのが誰が見てもわかるかと思います。これを調べたらですね、単にずれてるんじゃなくって、この社殿の向きは10キロ先にある聖なる山の特に修験道の聖地である御在所山を向いてることが大学で測量等をやってる研究室の測定によって分かったわけですね。ということで、この社殿は谷の水源地にあるだけじゃなくって、 10キロ先の聖なる山を信仰対象に遥拝する空間なんだっていうことがわかったわけです。御在所山はこんな山容で、地元では「おっぱい山」とか言われてるんですが、こういった遠いところにあるものを拝む神社でもあったということですね。 こういった状況を把握してどう社殿を再編するかですが、以下のような方針を定めました。

金峯神社は遥拝型の地球感受の空間を備えた神社であるとわかりました。座王権現宮が修験道の聖地たる御在所山を遥拝することはめちゃめちゃ重要だから、遥拝型の神社という特色は第一に優先すべしだと考えました。その一方で、あんまり狭い社地に適さない、かなり大型の複合社殿があったので、湿気溜りを招いて腐ってしまったということがありました。なので、今後続けるためには、社殿を小型化しないと良くないよってことがありました。 建築資金は氏子さん1人しかいなくって、基本氏子さんから集めてもカンパなので、全然資金がなかったです。なので、社殿の小型化はそれに寄与することと、それだけじゃ足りないので、安価で実現できる構法の選定が必要でした。 またあの山の中に社殿があるんですが、年を取ってしまった氏子さんたちは山地の社殿に自力で行くのは難しいので、 ここは大事なんですが、祭礼の場については、もうあの山は廃棄して里に定めるべしと考えました。


この結果考えたことを図解したものですが、上の方は現況です。水源に複合社殿があって、それが御在所山を向いてるという状況ですね。 遠い信仰と近い信仰で成り立ってる神社だということがあります。 それに対して、人がお祈りする場とかお祭りする場の拝殿は里に移して、谷の水源にいなきゃいけないのは神様の住処の本殿なので、これはここに置いておきます。 バラバラになると、何がなんだかわからなくなるので、本殿も拝殿も、ともに御在所山を遥拝することだけを堅持していくと、 元来の信仰はわかるんじゃないかっていうことで、このような再編を考えました。これを平面図解すると、元々の様態は里の際のところに社殿があって聖山を向いていたと。 今回の造替では本殿と拝殿に分けて、本殿は森においたままで、 拝殿を里に持っていって共に聖山を向くことでオリジナルの信仰を分かるようにしたということにしています。

里の拝殿ですがお金が全くないこともあったので、単管で作って、あと研究室で僕を含めて施工してですね。材木は知り合いの大工さんから割と安く譲っていただきました。 出来上がったものがこれで、ここがどこを向いているかというと、この棟のところが御在所山をまっすぐ向いています。このことで、これが何を拝んでいるのかわかんないってことがなくなるようにしています。 本殿の方ですが森の中に作り上げたもので、紆余曲折を経て、最終的にできたのは2024年なんですが、 金峯神社の名物である石段から変な向きを向いている風景が復活しています。これは上から見下ろしたような図になります。江戸時代のこの社殿はこう収まってるんですが、春日造りの社殿を、一回り大きくしたような、春日造りの大屋根被ってるような状態で。これも御在所山の方を向いています。このようにしたことによって、10年も途絶えていた祭りが復活しまして、これが、1人だけの氏子さんなんです。これが、近所に住まわれてる旧氏子さんたちです。 あと、高知工科大学はこの件に関わったので、普通に大学生も来てますね。里に拝殿を持ってきたことで、もう不可能と思われていた祭りが復活して、今までに9回やってるのかな。毎年、例祭が開催されることになりました。


ここで改めて、この建物のプロジェクトの意味合いを考えると、里に拝殿があることで近隣に散ってしまった方たちも1年に1回ここに集まります。 そういう風に見ていくと、水平世界はむしろ広がったという風に言えるかと思います。 逆に垂直な開けはどうかというと、拝殿と本殿を分けて、共に御在所を向くようにしているので、聖山への遥拝を介して垂直な開けを得ることがキープできているということが言えるかと思います。これが金峯神社のプロジェクトになります。ちなみに単管と材木でセルフビルドで人件費なしにしましたので30万円です、1個の社殿が。拝殿も本殿も30万円です。格安でできたということは付け加えておきます。


続きまして、ちょっと別なものですね。これは芸術祭に展示したものなので、本当の神社じゃない、なんちゃって神社なんですが。これは0の場所から改めて神社を作るようなものです。新潟県新潟市に作ったもので、産土をもじって産泥神社という名前にしています。 新潟市ですが日本海最大の都市で、2012年の写真なんですが、建物が密集していて奥の方には日本海が開けていて、手前に信濃川があって、自然がちゃんと見れるんですが、 人が集うところが建物で密集しきってるという状態があります。そんな中でですね、柳都大橋という橋の一角によくわからない空き地が開いていて、ぽかっとなんか穴が開いてる。これは、ここに高架道路が本当は立つ予定だったんですが、バブル期の計画だったので頓挫したみたいですね。今でも空き地のままなんですが、それが都市の亀裂になっています。


柳都大橋ができて、ここに高架道路ができるのが本当の計画だったんですが、頓挫したんで、ここは穴が開いてるわけですね。 これは柳都大橋があるとそんなもんかと思うんですが、1975年の空中写真を見ると、町の一角にただよくわかんない亀裂が走ったのと同じなので、唐突に穴が開いた状態になります。 このよくわからない蛇行した団地が建ってるわけですが、これは戦後すぐには運河だったわけで、そこは埋め立てられて団地になったということで、あまりにも都市の更新が目まぐるしくて、自分たちがどこにいるかもうわかんないような状態になってるのが当時の新潟だったかと思います。 今もそうなんでしょうけど、そういうもんかと思います。 2012年にこの亀裂みたいなところにこのよくわかんないものが立ち上がってるということがあって、これは一体何なのかっていうことですね。これが産泥神社なんですが、これに何の意味があるのかっていうことをちょっと話したいと思います。

基本的に、自然の基盤の中に都市の領域が限定的にあるのが都市の健全な状態ですけれども、都市なんていうのは京都も含めてどんどん変わります。 なので、変わるのはいいとしまして、現在のように都市が肥大化しすぎてしまうと、基盤がなんなのか全く見えなくなってしまう。なので、産泥神社は新潟の「水と土の芸術祭」に招待されて作ったものです。元々新潟は水と土しかなくって、そこへの飽くなき格闘の末に現在の繁栄を手に入れたんだってことがあるんだけれども、 その根源をほぼ思い返せないので、それが思い返せるような場を作ってほしいっていうのが、芸術祭全体のテーマでした。この状態の時に、柳都大橋というものと当時の頓挫があったおかげで、なんか市がぶち切れたような状態ができているということになります。

これは切れたところの瞬間に基盤が見え隠れするチャンスであるという風に捉えたので、 ここに天地型の神社中核みたいなもの作り上げて、あと、明確な軸線が現れてるんで、神社って軸線で組織されることが多いので、この俗なる軸線をあたかも聖なる軸かのように配置して、神社化したみたいなことをやりました。まず中核部ですが、ここは遥拝すべき聖なる原点にある信仰を見出せない土地だったので、天地型に頼るしかなかったです。土嚢ドームで下は大地のままで天窓が開けるという完全天地型の空間を本殿として作りました。 こういったものが単にあるだけじゃあ地域に定位はしがたいので、どう定位させたかですが、この柳都大橋の高架道路の軸線がビシっと走っていたので、これは俗なる亀裂なんですが、これがあたかも聖なる軸線かのように振る舞って、社殿の骨格を形成しました。

元来は軸線ってこのように作っちゃダメで、このように聖なる信仰核から延長されたところに社殿とか神社の境内を置いていくものなんですが、 これを逆手にとって、何の意味もないバブル期の経済の失敗みたいな軸線に社殿を合わしているということをやや皮肉も込めてやっています。



産泥神社の空間ですが、参詣図があってこれって本殿も入れる神社で、普通入れないんですが、江戸時代の「行動的空間」のようにクネクネと曲がって本殿に入って、最後はまた捻れたドームから出ていきます。これが全景で冬の時の景色ですが、こう入って、拝殿があって、石の間があって、本殿があって、あと、柳都大橋の切れ目があるということなのですが、参道、拝殿、石の間があって、天地型の本殿があって、そこから抜ける出口はねじっていて 出口の切妻の軸線との柳都大橋の軸線がピタッと重なるようにして、 社殿から出る時に俗なる軸と一致することで、現代の新潟市に戻ってきたみたいな感じにするようにしています。

あとは、この作った空間だけでこの神社を創生したというよりは、この空地は新潟の方たちに聞いたら「誰もこれ気に留めない場所だよ」って言っていて、「あんなところで作るの」って言われたんです。そんな場所でですね、土嚢がどんどん積み上がって、何かわけわからないものができていって、3月になると、潰しているみたいなのがあって。記憶喪失みたいになってる大都市では、何が建って何が消えて、今自分はどこにいるか全くわかんないようなことがあるんですけれども、 誰も気に留めない空き地っていうものを見つけて、そこで建設が起こって、ある時に解体されたみたいなことで、 みんな「あんな場所があったのか」っていうことを思い返したらしいです。もう今この建物ないんですけれども、何かしら現代都市で都市化の飽和みたいな状態の時に、こういう神社みたいなものがあればいいんじゃなかろうかなっていうことをこれが終わった後も考えています。

美術というのは非常にありがたくてですね、この土地は国交省が管理してて、道路扱いなんですが、「一時だったらいいよ」っていうことでこの敷地も選べたわけです。そういったような表現の自由さが美術側にはあるので、こういったものが作れたことは非常に幸運だったなと思っています。