𩵋谷――
ありがとうございます。最後、一気に怒涛で まだ整理できてないんですけども、僕は、建築ってやっぱり社会に関わってることと空間っていうことが建築の可能性としてあるんじゃないかなと思っていて。 社会性っていうのはやっぱり時代になってくるかもしれないし、空間性っていうのは時代関係なく、その両者を別々にじゃなく一緒に考えることはできないかなと考えています。今日の話を聞いて思ったのは、おそらくその環境が多分社会性としてこう考えられている。その環境をさらにこう文化的環境といわゆる地球環境に分けて、それぞれをフィールドを読解していくっていうところからアプローチしながら、 その両者を地球感受空間によって結びつけることによって、それが結果的に世界が開けていくことによって空間に繋がっていく。人間の存在の本質と空間にこう繋がっていく。ここにおいて空間性と社会性が一体的になっているところが、 この設計論、建築論の意義だなっていう風に感じました。
その一方で、渡辺菊眞さんの今日紹介していただいた建築設計、以前の建築とか設計を見てた立場からすると、地球とはもっと真逆の些細な俗な人間のところを作り上げた設計がたくさんあって、それが少し今日はロジックにしていただけるのかなと思ったら、産泥神社で出てきて、すごく良かったなと思ったのが1つ。あと、さっきの社会性と空間性みたいなものが、 どちらからというと、社会性の方から想起したものが、結果的に空間の方に反映されているようなことだったと思うんですけども、それに対して、おそらくニワの話かな、もう少し空間の方から働きかけようと、そういうことかなっていう風に理解して、さらに、その空間っていうのが、なんか斎庭っていうのが聖俗溢れたものっていうところによって、また俗世も作り上げられてくるのかなみたいなことを勝手に思って、これからの進化をとても楽しみに思いました。

渡辺――
ありがとうございます。
𩵋谷――
それで、その空間性みたいなこともより進化して楽しくなるし、同時に、社会性が、元々のその地域性とか地球環境みたいなものから始まってるのが地球感受に結構ちょっと飛んだなと、その社会性のデータを埋めるのが、国際相互協力っていうところが繋がってくるのかなっていう風に勝手に理解しました。なので、なんか全てが全体的に固まってきて、すごいことになりなそうだなという風に勝手ににドキドキしています。昔、建築の話をしながら、こうドキドキしたのを思い出しました。ありがとうございます。以上は僕のつまんない感想なんですけども、まず最初に指導教員の解説コメントをお願いします。
長坂――
今日本当はここに来る予定なくて、こない方がいいんでしょうけど、一応主任指導してましたんで。京都工芸繊維大学の長坂です。
話すと長くなりますけど、渡辺さんと色々まとめるって話して、 2ヶ月に1回ぐらいやってましたっけ。打ち合わせごとに今回こうなりましたみたいなことをやりながら進めていって、僕はもちろん内容のことを色々聞いてますから、ざっと知ってるわけです。今日はね、やっぱり最後に博士課程の論文をまとめる呪縛から外れて、やっと言いたいことも言えたのかなという風に聞いて、ちょっとほっとしたりもしながら、 論文まとめるって一方でめんどくさいなという話もちょっと実感しながら聞いてました。
でね、僕も今日改めて今まで色々色んなことを語り合ってきたことを含めて見てて面白かったんですけど、僕が今日、感想で、もしなんか言わされたら言おうと思ったのは、人間の性みたいなもの人間の欲望の大きさみたいなものがいかに地球を歪めてるかみたいなことを改めていろんな観点から見せてもらっているのが渡辺さんがやってらっしゃることなのかなという風に思います。今日最後のここまで論文終わって後でって言っていただいた中で、 設計をしていく上で、日常の社会には対応しなきゃいけないけども、それを元に建築決めちゃダメなんだっていうある。ぐちゃぐちゃあっていいんだけど、ぐちゃぐちゃの元にあるものはなんなのかっていうのが大事なんだ、という言われ方をされてましたけども、 私も普段設計をしてますので、その日常のぐじゃぐじゃいっぱい言ってくる人に答えながら設計ってするわけですね。だけども、元になってる部分をなんで決めてるかっていうのは、どっかで自分が持ってなきゃいけないわけで。そういうことを今日話していただいた全体の流れの中で非常に強く感じるような気がしています。
一方で、じゃあ渡辺さんが決めてる部分のめちゃくちゃ強引なところとそうじゃないところが同じ口調で全部話されてる。非常にうまいこと話が流れてるんだけど、その断絶を埋めるのにみんな非常に疲れながら聞いてるんじゃないかと。 あれでさらっと言ってるけど、なんであれなんだろうっていうのがあると思うんですね。だからそれは言ってみれば、ただ原理の部分は欲望に惑わされてるのではなくて、原理について向き合ってるよって彼が言ってるわけです。 でも、答えは彼が決めてるので、設計っていうのはやっぱりその辺が、作家のレベルっていうものが決めてる部分が、世界を決めてる原理の話とやっぱ違ってくる部分はあるわけです。 という風なことがあって、その欲望というのは1つのこと。
それから、そのことを感じさせてもらうってことのもう1つはですね、改めて今日見てみると、日本の高知や地元でやってる仕事とタイで作られてた学校もありましたけども、タイで作られてる学校の方が多分多くの人は非常に清々しいなって多分思ったんじゃないですか。日本で作ってるものの方がそう簡単にはいかないなっていう。やっぱり日本で作ってると身の回りの日常が、渡辺菊眞であっても、やっぱりここまで動かされるんだっていうのもあるんで。 逆に言ったら、お金もない、何もない、技術も非常にプリミティブなとこで、それ以上のことを逆に言ったら欲望として抑圧されないので、それは非常に素直に出てるっていう。その部分の差が、今、日本がどういう位置付けに置かれてるか、先進国がどういう位置付けに置かれてるかっていうのをよく見せていただいたなという風な気もいたします。大変面白い話されて、どうもありがとうございました。
渡辺――
特に最後のところはそうですね、正直なところそれはありまして。今回あんまり出してませんけど、インド、アフリカ、 タイとかに行った時に純粋にまず建築がどうやっても欲されてる状況を0から作らなきゃいけないっていうことがあって、確かにお金もないので、そこにあるようなものは全て総動員して作っていくんですけど、その現場みたいなものっていうのは先ほど長坂先生がおっしゃったように、 ものすごく純度が高い。建築が本当に必要とされてるならば作らざるを得ないことがある一方、(建築が本当に必要とも思えないことの多い)日本に帰ってくる時に相当しんどいっていうのは事実です。なので、ある種、屈折していくっていうのは本当にそうなんですが。
そうなんですけれども、どうにかして日本ではできないとか言ってしまうとダメなので、随分へんてこな状況でものを作ってるんですけれど、どうにかして、本当に建築が欲されてるような状況には見えないところで、何か、どこか少しでもそれを見つけてどうにかならないのかっていうことをしてるみたいな話が正直なことです。建築が本当に欲されて場所では地面しかないところに 鉄芯でガリガリと地面に図面に描くみたいな話がずっと原点にありながら、それを別に僕はそこにいてなくって、日本でも、例えばどっか西洋でも、 途上国じゃないところでやる時にも、何ができるのかっていうことを 一応考え続けていきたいなと思ってます。なんかあんま答えにもなってませんが、それがあるのは事実です。
長坂――
今の話でもう1つちょっと言いたくなったんですけど、 渡辺さんの非常にいいなと思ってるのは今のタイのああいうものになった時に、原理の部分を持ってるもんだから、すぐにそこまで戻っていろんなところに対応できるんですね。あんなにいろんなことやってるって、なかなか普通の人じゃないと思うんですけど、 普通に、僕なんかもうちょっとこう、住宅なんかをこうたくさんやってるとですね、その目先のものの中に、いい意味でポジティブな感覚は持ってるんですけど、ポジティブっていうのが、さっき申し上げた言い方で言うと、 人間の欲の部分と、いい世界を掴み取ろうと思う欲の方がね、ポジティブっていう風にどっかで言い替えちゃってる部分が依頼されてる側、あるいは社会の側も設計者の側もあるような気がするんですよ。
それが常に欲ではなくて、そうではないところに多分あるっていう風に結構しっかり思ってるもんだから、常に戻れるっていうか。欲の部分を解決する手法にまみれて設計してるとですね、その世界の中でも非常に優秀だったり、設計をたくさん取れたりするんですけど、 そうじゃないとこに行った瞬間にどうするんだろうってなると思うんですけど、渡辺さんがやってらっしゃることを見てると、そういうことは全然ないんだろうなという風に思いますね。
なので、今言ったのは、例えばポジティブっていうことに対して、例えばネガティブっていう答えがあるとすると、 ネガティブってのが悪い方のメンタルな言い方にもなりますけど、ポジティブに対して、それこそパッシブじゃないですけど、地球が求めてることに対して答えてるのであって、俺がこうしたい、あれがしたいって答えてるんじゃないだっていうことをさっきおっしゃってましたよね。 そういうことも、やってることを見てると、非常にいい方向性というのを自分が持ってる。持ってること、あるいは方向性がいつも決まってるわけじゃなくて、それは柔軟に見なきゃいけないけども、 原理原則が地球という言葉になってるとすると、地球と地域の距離感っていうのは自分が既に持ってるっていうことが重要なのかなっていう風に改めて思います。 っていうことですよね。ありがとうございます。
𩵋谷――
だから、俗と聖を裏表で合わせ持つのではなくて、聖俗も含めて、聖俗の基盤として、もう少し世界とか人間の存在の本質であったり、あるいは建築に対する信頼みたいなのがそこにあるから、俗も聖も一緒くたで構わないのかなっていう風に思いました。
ありきたりな質疑応答でいいですよ。 何か感想とか質問とかお祝いとか。