地域−地球型建築の3つの要点



渡辺――
ここでまとめですが、地域−地球型建築というものの要になることを3つ挙げようとします。文章でちょっとしんどいんですが、要点の1つ目は地域−地球型建築というものは、 人間存在の根本構造における平仮名の「いる」ということが空間として具現化された建築であるという風に考えてます。それが目指されるべきだと思っています。要点2 は、地域−地球型建築は、自然環境適応、パッシブですね。 あと、文化環境適応、フィールドの読解です。それが相補って総合的な環境に適応する。まずは地域型の建築をなすと同時に、 環境の母体である地球を感受できる、地球感受の空間によってそれができます。結果として、自分の地域、流動的な地域だけじゃなく、その母体となる地球というものを見失うことのないが建築になると考えてます。 要点3は要点2とやや似てるんですが、地域−地球型建築は常に流動の中にあります。現在性を反映させるから不動のものは作れません。ただし、地球感受の空間は、構法や形態が変わったとしても、大地と天をつなぐという目的は全く変わらないので、 そういった不動の土台に支えられて、その結果、流動の中にいたとしても安心を得ることのできる建築だという風に考えています。



最後結論ですが、本研究から得られた知見ということは、まず1番目は平凡なことを書いていますが、パッシブ導入とフィールド読解、双方を複合したことで、 地域−地球型建築という新しい概念と設計手法を構築したというのがあります。これ、大したことじゃないかと思います。 現代建築で、そもそも広く取り組まれてきた、2つの手法を束ねたということはあるんですけれども「そんな人結構いるんじゃないの」ってことだと思いますし、1つの大事なことだと思いますが、これはもう1番大きなことではないと思ってます。 2個目の方が大事だと思っていてですね、対象領域を地域だけじゃなくて地球まで拡張して、 その地球を媒介として水平世界と垂直な開けを結びつけたことの方が大きいと思います。

垂直な開けは、シュルツが言っているように実存するためには不可欠ということはしつこく言われていながら、現在は基本的に垂直性みたいなことは等閑視されて久しいです。これはただし、ここでは垂直な開けを神秘主義みたいなことじゃなくって、地球にそれを担ってもらうことで、 強引な神秘主義みたいなものに陥ることは脱しているんじゃないかということを思います。また、地球が水平世界の最大領域であって、かつ垂直な開けを担う場である。それは地球ですから、 水平と垂直が地球ということで媒介されるので、こういう関係になることができます。

以前の失敗は建築のポストボタンというものが神秘的なものをですね、空間の美的表現としてだけやってしまったので「ダメだな」ってことになったんです。それを地域−地球型建築にすることで、その失敗を乗り越えて、 かつ、ずっと不動のテーマである実存を回復するということの成果を得られたんじゃないかという風に思っていて、このことが大きな意義を持っていると考えています。

ここまでが研究の内容となります。ここから今後のことについてなんですが、どうすればいいですかね。

森田――
そのままお話しいただいていいと思います。

渡辺――
でしたら、 ここから特に面白いかどうかって保証できないんですけども、ただ、ようやく、さっきの結論みたいなことを話したことで、もう論文チックな話に収まらなくていいという安堵感があります。 なので、地域−地球型建築というものを携えた時に、それをどう進めるのか、どう深めるのかってことに向かっての話を、今考えてる生なことなので、まとまってないですが、その話ちょっとしていきたいと思います。


1つはですね、 0からなんでもかんでもこうガコガコ作るんじゃないことを思っていて、地域−地球型空間なるものがそもそもあったりしてて、そういう場合は、最小限の建築を重ねるだけで、地域−地球型建築ができんじゃないかなとか思ってます。葡萄棚パッシブハウスということを考えているんですが、この論文でも取り上げているんですけど、この1個目はブドウ棚かどうかもわかんないもの作っていて、 その上に強引に結構RCっぽい建物を建てていて、建物も「作りまくりじゃない?」みたいな感じなんですが、これが原点じゃないです。

実は、宙地の間って自邸なんですが、近所にこういう葡萄棚があって、非常に心を奪われました。 この葡萄棚はビニールハウスなんですが、φ20、要は2cmぐらいの直径のパイプだけでできているので、 地盤も全くいじめなくてですね、ほぼ造成せずに、かつ、それでもって地面と全く同じ形のビニールの屋根ができます。それが、陽光を受けて煌めいて、キラキラと輝いていて、めちゃくちゃ美しいなと思ったんですね。



これ自体は、葡萄を植えるという地域の生業の風景でもあって、そこが温室であることで、冬はこの上から温風が噴き出してくるっていうのがあって、パッシブ的なこともできそうです。あとは、大地の上にこの鏡みたいな屋根ができて、空を映してますから、地球感受の空間でもあるように見えたわけです。っていう時に、ギリギリあの余地に、どうにか建物をすっと埋め込めたらですね、 建物を作る量は多くなくって、葡萄棚のビニールハウスをほぼ主役にして建物ができんじゃないかなという風に思ったわけです。冬期にこっから温風が噴き出してくるので、それを空気集熱によって温熱環境を整えることができたらと考えています。

これちょっと大層に見えるかもしれませんが、葡萄棚のビニールハウスはもっとおっきくってですね、その一角に、φ114ぐらいの鋼管杭かなんかで浮き床を作って、こういう風なものができないかなっていうことを考えています。元々このビニールハウスがですね、地球感受の空間で、パッシブができそうで、文化的な生業の風景でもあるから、こいつはもう3種ほぼ完備していて、そこになんか建物を入れ込んだら、これでもって地域−地球型建築とかできんじゃないかってのがあります。 実際建てれるかどうかちょっと分からないとしても、こういうすでにあるような何かが地域-地球性を備えてる場合は、とにかく建物をガンガン作るというよりは最小限の建物を沿わせることで、地域−地球型建築になるということがあり得るんじゃないかなっていうことを考えています。

自然環境適応、文化環境適応、地球感受の三位一体空間が葡萄棚ビニールハウスなんです。ただし、ビニルハウス自体は、別にそれを目指しているわけではないです。そういうものをいわゆる建築家の目で発見して、それに寄り添うことで成立するような地域-地球型建築というものができないかということをずっと思っています。

もう1つはニワということが気になっていて、地域−地球型建築とニワっていうことがほんまに言いたいことです。これはゲンダイタテアナを起点にしてて、「ニワを真ん中に据えてますよ」ってさっき話しました。人間が「いる」場所じゃないところがパッシブの中核になってたりするって話は先ほどしました。それで、そもそも庭ってなんなのかなと思ったんですが、竪穴住居の時は、その中をニワとは呼びません。これは土間一室で、 炉があって、上に天窓があります。完全に地球を感受できる空間があるわけですね。


それが農家になってですね、竪穴の嫡流と言われている茅葺農家ですが、高床と土間が併設され、ニワという呼び方に変わります。ある種、やや痕跡化されるわけですね。ここに釜戸があるから、天窓の煙抜きはあるわけです。こういったニワのあることを再度見出せないかなっていうことを思っているわけです。 ニワに関しては、この土間が光を浴びてぼーっと光っていて、やはり、ここで住むことの中心にはならないんだけど、これが大地と天を繋ぐ場所になってるように思ってます。こういったことを再組織化して建築ができないかなっていうことを思っています。


土間とかだけだと、民家によくある話なんですが、ニワって元々はこの左にあるような斎庭という自然の一角を掃き清めて、石を敷いて、そこに神様を降ろしてくる。伊勢神宮にあるようなこの古殿池っていうのも、斎庭の系列が未だに残ってるもんだと考えていて、枯山水も東滴壺みたいなものも、こういう斎庭みたいなのをベースにしたものだと思ってます。 ニワというものは大地のでこぼことか、植物が生えてるとか、土とかっていう具体性を一旦消し去った中に、天や空を映す鏡というもんだという風に捉えてます。



ゲンダイタテアナのニワは南の空や北の空がここで受け止められるんですが、そういう風に考えていきたいと思っています。これはニワなんだけど、地球感受の空間でパッシブの要で、かつフィールドにも寄与してるみたいなことを目指してるわけです。この他に、ニワって色々あると思って、先ほどの葡萄棚のビニールハウスも実はニワみたいなもんだと思ってます。葡萄棚のビニールハウスっていうのは、実は生業の切実な思いで作られたものなんですが、 大地の形をしたまんまで重さが全くなく、空をキラキラと反射する、この様はまさに大地に現れた鏡みたいなもので、これも斎庭みたいなもんじゃないかなと思ってます。こういったニワというのは多分地球を感受するものが純度高く表現されたもんだという風に捉えているので、 こういうものを中核に据えたことを考えていきたいと思ってます。

あとは「回り込む求心と0」についてなんですが、「なんやねんそれ」ってことですが、フランク・ロイド・ライトが回り込みながら求心する平面計画の話をしてます。「風景の庭」では回り込んだ中核に、地球感受の空間があるよと言いましたが、このライトの回り込む話ちょっと面白いことがあります。 これはフランク・ロイド・ライトの若い研究者が、マーティン邸とかの周り込むライトの好きなアプローチのは、金刀比羅宮の旭社にこう迂回していきながら行くやつと似てるよ、みたいなこと言ってます。それがほんまかどうかわかりませんが、日本のこの紆余曲折するアプローチの向こうに核があるって確かにあって、「なるほどな」ということをこの本を見て思ったんですが、実はこれって、これだけだとあんま面白くないんですよね。


ただ、この先が面白くてですね。実はこの旭社、旧金堂なんですけど、金堂にまず一旦ぶつかりますけど、これくるくる回れるんですね。 円環っていうのはベタな物語を書く時に循環構造ってありますよね。スタートにまた戻ってて、結構いろんなシーンを送り迎えしたんだけど元に戻ったみたいな話があって、不思議な気持ちを引き出すベタな手法なんだけど、日本建築はこの円環がものすごい好きで、この円環でもって結局0にしてしまうみたいなことが非常に多くの社地であります。

これっていうのはマーティン邸に似てるだけでもしょうがないんですが、旭社を起点に実は0が描かれてるってことがあって、こういったとこに具体的に空を映す鏡は何もないんだけど、円環を描くことで不可視の鏡みたいなものが形成されてんじゃないかなっていうことを勝手に思っています。その他にこういう東滴壺という、いわゆる鏡っぽい斎庭から直接的な影響を受けたであろう庭ですけれども、龍源院の一角なんですが、これ最初入った時、まずこいつが見えるんですよね。この時、なんかわけわからんものがあるなと思うんですけれども、 結局ですね、この南北に結構対照的な庭があって、見てぐるっと回ってる時にもう一度ここに戻ってきます。

わけわからないんですが、一周した時にもう1回東滴壺に出会う時に、これも円環構造なんですが、円が結ばれる時にようやく東滴壺で、ここがなんか鏡的な意味合いを帯びてくるというのがあって、 こういったことの日本のですね、空間技工みたいなことを改めて消化しながら建築っていうのを作っていけないかな、特に地域−地球型建築でできないかなと思っています。


それで、斎庭とか言うと、なんかこう掃き清められて、これも伊勢の末社なんですが、こういう誰も入れないようなものなんかを日常空間に作ろうとしてるように思われるかもしれませんが、そういうことは思ってないです。現代において伊勢神宮はかなり 神聖化されてるから斎庭っぽい状態があちこちで見られるんですが、こういった場所も江戸時代は末社だらけでぐちゃぐちゃなんですよね。なので、要は斎庭みたいなこういう鏡みたいなものは、常に鏡みたいに保つことが大事なんじゃなくって、鏡的な状態で型は決めるんだけど、普段は日常に混ぜてぐちゃぐちゃでいいと思ってます。

なので、ゲンダイタテアナのニワとかも普段は洗濯干したりとかそういう酒飲んだり酔っぱらって潰れたりとか、そんなんでいいと思うんですけれども、 要は大事なのが日常のグダグダを基準に形を決めちゃダメで、ニワは天を映す鏡としてあくまで型を決めるんだけど、普段はぐちゃぐちゃでいいという風に思っていて、そこが大きな差だという風に考えてます。なので、ニワは斎庭でもあるんですが、俗なる喧騒だとか揺らぎのある場でもあります。ただし、喧騒が過ぎ去りし時に0に帰還するってことが大事なんじゃないかと。


僕はあんまりちゃんと読んでないんですけれども、妹島和世さんがプラットホームみたいなこと言ってた時に、人がある時はわーっと賑わっていて、いなくなると場所だけがある、なんてことを大昔に言ってました。そういうのっていうのは基本この手の話と同じなのかなと思っていて。ただし、 日常のワーとするものを目的に作っちゃダメで、あくまでも大地にあって空を映す鏡として、しっかりした構成で作ったものが、普段はぐじゃぐじゃであってもいいという風に思っています。今、この手のニワを中核に据えた第1弾を磐田で作ってまして、2024年度にできます。できた時にほんまにそんなことできたんかいって思うと思います。ここ、多分できると僕は信じてますので、またできたら皆さんにご連絡、何らかの形でご案内できたらいいのかなという風に思っています。

最後に、「国際協力から地球相互協力へ」はさらっと終わらせます。単に所感です。2001年からこういうことやってきてたんですけれども、国際協力という言葉がなんかすごく嫌で、何が嫌かというと、 基本的には先進国から途上国に技術移転する一方法の矢印がほぼです。 なので、非常に傲慢で、何に向けて協力してるのかっていうと、あんたたちもここに追いついてきなさいみたいなことなんですよね。その時に先進国が抱える様々な問題があるんだけれども、そんなことやってると、時間差で途上国に先進国の問題が伝播する危険性があると思ってるんで、 なんかダメだと思っています。国際ってインターナショナルって言葉は、地域が育んでる多様な価値を均質化しかねないということもあって、やだなと思ってます。


私自身がなんかあちこちでよくわかんないものを作ってきてる時に、日本であっても世界であっても作るもんが変わらないですねっていう時に、もう先進から途上に向けて矢印が一方向になってるのがピンとこない話があって。これは綺麗事っぽくても良くないんですけれども、先進や途上を鍵括弧に一旦入れるとして、 基本的には技術も思想も相互に理解することと1番大事なのは相互の状況は違うんだけど、同じ地球にいるという感覚を共有することが大事なのかなと思っています。これによって、どちらかに対して扶助するというよりは、お互い協力し合って、自分の母体である地球環境の回復に向けて少しでも助力できることが大事なのかなって考えてます。



これが本当にラストですが、「すぐこことはるかかなたをつなぐ」というあのルビはなんなのかってことです。これは地域−地球型建築という話をする以前から私が掲げてて、一生多分変わることのない言葉だと思ってます。 「すぐここ」は水平世界で、「はるかかなた」は垂直な開けという風に思ってまして、 「すぐこことはるかかなたをつなぐ」という時に垂直な開け、これが大概等閑視されていることがあって、まずいと思ってます。実存が成立するために垂直な開けが要るんですが、垂直な開けを忘れたり、投げ出して放擲してはならないと思っています。 また、垂直な開けを現実とは孤立無縁で単に象徴的で「すごい神秘的だな」みたいな美的表現だけにとどめてもいけないと思ってます。水平世界と垂直な開けがちゃんと結びついていることが、実存を可能にすると考えています。


水平世界と垂直な開けが結びつくことが大事なんですが、その時浮上してくるのは地球だと思ってます。 地球は水平世界のマックス領域でもあるとともに、シュルツが言うところの宇宙論に支えられて垂直な開けも導いてくれます。なので、地球というものは水平世界と垂直な開けを結んでくれます。ということで、なぜ私が地域−地球型建築に「すぐこことはるかかなたをつなぐ」というルビを振ったかということですが、 その言葉、特にあんま考えずに2007年つけた言葉がこのひらがなのやつなんですが、 おそらくこれの方が先にあって、水平と垂直が結ばれていく場を作りたいとずっと思っていて、それを追求した結果、それを成し遂げられるのが地域−地球型建築じゃないかなと思っているというのが本音になります。

随分長いことになってしまいましたが、私が用意したスライドはこれで以上になります。どうもありがとうございました。