つくり方のつくり方

甲斐|

ここから今日ちょっと2つテーマがありまして、ひとつが「つくり方のつくり方」っていう話と、もう1つが「それのそれらしさ」というテーマです。これは、自分がやろうとしていることとか、やっていることを簡潔に言うと、こんな感じになるんですけど。

まずこれはたまたま京都なんですけど、2014年なので、学部2年生の時に、京都のMEDIA SHOP galleryである展示があって、その時につくったものです。このテーブルみたいな方ですね、上に載ってるのは作家さんの作品なんですけど。この什器の設計と制作をしました。

これがどうやってできてるかというと、この角材が天板を支えてるんですが、ここには溝が切ってあって、板には角材と同じ大きさの角穴が開いていて、そこに通して溝があるところで回すと止まるっていうようなディテールを考えました。

これ図面で書けばわかるんですけど、ここを回転するので、ルート2分の1倍分掘り込むと、中で回転する余白が生まれて、この重なってるところが天板の荷重を受けてくれて止まる、みたいなディティールになってます。これは東京で制作して、京都に送って、京都で組み立てるっていう与件があったので、こういうディテールを考えました。什器の上に出展作家の作品が並んでいて、その作家ごとに天板が分かれています。この角材にレーザー彫刻のキャプションがついてるんですね。ここが誰の作品であるっていうのをこの角材が示してるんですけど。

京都のMEDIA SHOP galleryでの展示
天板を支える角材

この角材のディテールっていうのは、すごく制作するのが簡単なんですね。丸ノコってあるじゃないですか。丸ノコってこう定盤から刃物ちょっと出てるんですよね。その部分で材料を切るんですけど、その刃物の出をちょっとにして、 材料をシュっと切ると、ちょっとだけ溝ができるじゃないですか。刃幅分の3ミリの溝。それを刃幅分ズラしていくと、相欠きのような欠き取りができて、これを角材で4周やると、こういう状態ができる。すごく簡単なんです。この欠き取り方法だと、作るのも簡単だし、回転して止めるという原理としても気に入っていて、これを展開したいなと思っていました。

その次にこれは、4年生の時につくった展示什器です。MEDIA SHOPのときのディテールは、全部直交座標系なんですよね。この欠き取りも、角材に対して90度だから、天板と脚の角度も当然90度になるんですけど、これ角度を振っても同じことできるよなと思ってやったのが、この什器です。この脚の真ん中の部材をずらしてきて、傾けると止まるっていうようなディテールになってます。この真ん中の脚には貫の断面分の角穴が開いていて、この貫に先程のディテールに似たギミックがいる。ただ、これがこうなってると、こいつは90度のところで止まるんだけど、これができるなら、任意の角度で止めるっていうこともできるだろう、という風に仮説を立ててつくりました。

具体的にはさっき言ったのってこういう状態(テーブルの上に角材を置いて)なんですけど、刃物をちょっと出して角材を動かす、その動かす角材の方が傾けばいいわけですよね。傾いた相欠きをつくりたかった。角材の傾きさえ管理できれば、刃幅分ずらして切ってくっていうのはさっきと同じなので、誰でもつくれる状態が設計できる。この角材の傾きの管理方法を設計しないままつくり手に投げてしまうと、寸法も全部中途半端な数字になるので、必ず誤差が出るし、かなりむずかしい。つくれないって言われてしまう可能性すらあります。ですが、そこを管理する方法を設計してあげれば、容易に制作ができます。

4年生の時につくった展示什器
傾けると止まるディテール

ちょっと動画を流します。設計してる時は、こういう風に自分はよく3Dを使うんですけど、什器の幅とか高さとか角度みたいなのを設計すると、三面図が出て、部材図が出る。そこまでは普通の設計図面と変わらないのですが、重要なのはここで、さっきの角度をコントロールする治具のカット図を出力しています。刃物を定盤から20ミリ出した状態で、この治具に材料をセットすると、もうこの通りにしか切れない。

この状態が設計できれば、むしろこの図面っていらなくて、治具さえあれば、けがき線もなしに、必ず設計したものが得られる。誰がやっても。これを設計としたいなっていうのがあるんですよね。なので、自分が職人的な技巧で、何か工芸的にものを作るっていう、自分しか作れないものの方に行くのではなくて、元々ある技法とか、人のリソースとかを前提条件、与件にして、それで作れる状態を設計するっていうようなことを考えるようになりました。これを「つくり方のつくり方」という風に言っていて、つくり方を設計しています。

治具のカット図

みなさんもよくあると思うんですけど、建築とか自分が作るわけじゃないじゃないですか。建築以外のものも、自分が作ることがないことの方が、設計者の場合は多いと思うんですけど、めっちゃいいものが設計できても作れないって言われたら作れない、生み出せないんですよね。それで消えていく案をよく見ていて、それに対するフラストレーションがあって。 その設計者に対してもだし、製作者に対しても。「できるでしょう」「いや、できません」じゃなくて、その両者の関係をもっとブラッシュアップしていきたいみたいなのがあります。

もっと言うと、どんなものでも、絵を書いてしまえば作れる状態にしたいっていう感覚があります。アーティストが書いた絵だろうと、建築家が書いたスケッチだろうと、その人が、スケッチや絵を書いた時に考えている概念の解像度を下げずにつくる、つくり方を考える。どうしても何か設計した時に、コストとか、制作者のリソースとか、スケジュールとか、いろんな与件でどんどん解像度が下がっていくんですよね。それが嫌なので、それを解くっていうところをやりたい、特にコラボレーションワークにおけるやり方としては、そこをやりたいなと思ってます。

近しい話で、もう1つ。これもここに物があるので。

自分は本当は芸大の木工芸に行きたかったんですよ、 建築じゃなくて。でも芸大の木工芸って、大学院からしかなくて。あと工芸って学部入試がむずかしいんですよね。めっちゃ絵をかけなきゃいけなくて。それで入れる建築に入ったんですけど。

だから、工芸的にものを作ることはすごい好きで。今もですけど、ずっと木を削る、何も考えずに削ってる時が1番幸せなんですよね。幸せなんですけど、再現性もないし、一般化できないので、そうじゃない方法で、工芸をやりたいみたいなのがあります。これを「工学的に工芸をやる」という風に自分では言ってるんですけど。

技法においても、工芸とか、絵画とか全部そうなんですけど、「本当か?」みたいなことが結構あるんですよ。工学的じゃないこと、科学的じゃないこと。木の収縮の話とか、材料の酸化とか、劣化の話とか。絵画で言うとなんでしょう、使う材料とか。そうですね、メディウムとか、こういう作業する時にはこの漆を使い、この膠を使いますとか。「それって本当なのか?」みたいなのがいっぱいあるんですよ。だから、そういうのを1個1個工学的に問い直して技法を分解して、再構築するみたいなことをよく考えてやってます。伝統的にやられていることとかを、ちゃんとつぶさに見て、「それってこう応用したらこうなるかも」みたいなことを考えています。

これは穴が開いてるんですけど、朽ちた材料を使ってるんですね。この材料の朽ちとか欠けとかっていうのを形にしたいって思った時に、これは木工旋盤で挽くんですけど、普通に挽くと、飛んでっちゃうんですよ。こういう朽ちたり欠けたりしているところって弱いので、刃物を当てると飛んでっちゃって、この形にならないんですよね。それをこの形をつくるための作り方を設計することで、できないだろうかという風に考えていて。これは3Dスキャンをして、モデルに落として、「どうやって設計したらここにこういう穴が開くか」みたいなのを設計で検討しています。

朽ちた木材


でもそのまま旋盤で挽くと崩れちゃうので、ろうそくのろうで、板材の状態で一旦キャストする。こいつをひとまわり大きい、四角形の箱に入れて、そこにろうをどぼどぼどぼって入れて、蝋で一旦固めてしまう。そして、固めたものを旋盤で挽く。弾いた後に、ろうを溶かす。ちなみに、これを旋盤だけでやるっていうのは、実際できなくないんですよ。技術を持った作家がやればこれはできるんですけど、そうじゃない方法で、それを一般化する方法を考えたい。

だから、この作品ひとつに意味があるんじゃなくて、材料をスキャンして、キャストして、 挽いてつくるっていうシステムを設計することに意味があると思っています。それができると、方法論が一般化できて、同じように、いろんなものが作れるっていうようなことですね

制作した器

ちょっと話が小さいものに寄ってしまいましたけど、これは建築においても一緒で、建築、家具、建具、什器をやる時にも同じようなことを考えてやってます。

森田|

質問ですけれど、芸術大学ってやっぱり再現性というよりは、「1個マスターピースを作る」みたいなことを目指す世界だと思うんですけれど、そういう環境で教育受けてるのに、どうしてそれが再現できるようなシステムみたいなものに興味を持つようになったんですか。

甲斐|

それは、 そうなりたくはなかったんですけど、多分建築のせいでそうなってしまって、1点ものみたいな方に行けなくなっちゃったんですよね。それってなんなんでしょうね。結構芸大の教育がそうなのかわかんないですけど、結構はっきり分かれてて。日本画と工芸と彫刻は割と保守的で、油絵とか建築とかは非保守派みたいな感じになっていて。全然教育のされ方も違うんですよね。工芸の分野とかはその技法みたいなものを、守っていく。

縦社会というか、こう受け継がれていくものがあって、それを受け継いでいくっていう。建築は全く逆で、その教えられることに対して、疑念を抱くっていうような教育のされ方をしていて、答えになってるかわかんないですけど、建築は少なくともそういう環境だったんですよね。本当はこうなりたくなかったんですけど。一品もの的なマテリアルを愛でて、一品ものを作ってる時に、 常にずっと建築側の自分がモヤモヤしてる。

森田|

「それでいいのか?」みたいな感じですか?

甲斐|

はい。「それでいいんだよ!」って思いながらやってるんですけど。っていうのがあるんですよね。来世は陶芸をやりたいと思ってるんですけど、今世は無理だなって思ってます。

陶芸って純粋に形と素材で対話するっていう作業なんですけど、建築を経たことによって難しくなっている。なぜその形なのかとか。そういうことをずっと建築側の自分が言ってくる感じ。1度建築をや てしまうと、もう戻れなくなってしまっていて、何をする時もそうですね。それがそれである必然性とは、みたいなことを考えてしまいます。勝手にがんじがらめになってるだけなんですけど。

森田|

この素材を選ぶ段階では、最初は1個しかないものを選んでくるわけですよね。

甲斐|

そこを愛でたいので、あの木の朽ちとか欠けとかを愛でたいんですけど。 一点もの的な愛で方じゃなくて、一般化した愛で方がしたい。なんなんでしょうね。自分でもよくわかんないですけど。

垣内|

やっぱり言語化しなければいけないっていうか。いいと思ったものの形を、「これ僕作ったんだけどいいでしょ」って言うだけでは、 やっぱり再現性がない。その再現性を自分に課すことによって、それを例えば数値で説明できる、数式で説明できるっていうこと自体に価値があるように思う。

だから、自分だけでその形を抱きしめないっていうか。「この形いいと思った人には、 こういうものを使って、こういう数式であればできるよ」っていう技術の言語化やと思うんやけど、それはすごいなんか共感できるなって。

甲斐|

その一方で、「自分がいいと思った形で良くない?」って思ったりするんですよ。建築とかに対しても。

ものって言いようじゃないですか。どういうプロセスで何ができるかって。「aを考えたらbになってbを考えたらcになったからこれができた」って説明するのと、いきなりcができて、それをそういう風に語るのもできるじゃないですか。まあ、言葉では嘘をつくことができるので。そう考えると「あるものができる理由とか、 本当に必要なのかな?」みたいなことを建築に対してすごく思うところがあります。

このことについて服部さんとよく話すんですけど、服部さんは必然性みたいなことをよく言うので、「これはこうあるべくしてある」みたいな。それがまだわからないんですよね。だから、建築が難しいなと思ってて、人に説明しなければならないところが多分にあるじゃないですか、当然ですけど。そうやってものを作っていく方法じゃない方法で作れないかなとか。

あとの話で繋がるんですけど、 「人の振る舞いを考えて、設計されたもの」と「人の振る舞いを無視して作られたものに、人が振る舞うこと」ってさして違わないのではないか、みたいな感覚があるんですよ。だから、設計する論理全てがロジカルである必要はないんじゃないかっていう。「関係ない秩序とかが入ってきたとしても、全然成立するんじゃないか?」みたいなのがありますね。ちょっとのちほど議論させてください。

後半_質問

甲斐|

なんかやっぱレクチャーってすごくいいなって思うのは、自分にとってすごくいいんですよね。自分が自分のことわかってないことがすごい多いので、 ちょっとずつ自分のことをわかってくる感じが、もしかしたらそうなのかもしれないみたいなのが、とても自分にとって良いです。

学生|

最後の方で、設計に対してする説明が別になくてもいいというか、「説明があるものがあるものがいいわけじゃない」みたいな話をされてたと思うんですけど、自分で独立されて、お仕事するってなったら、外部に対して合理的な説明をする機会っていうのは、多いと思われるんですね。そこに対しては、やっぱりちゃんとした説明を用意するっていう意識で設計されたり文章書いたりされるのか、それとも、こう振り返って、この時はこうだったみたいな感じですか?

説明調になって物事を制作するようにしているのか、客観的に後から見て説明を考えるのか。

甲斐|

どっちかだと、後者で、もちろんロジックなしに作り始めることはほとんどないですけど、何らかのロジックを作って設計し始めて、それを後から見て考え直して、そっちで話すみたいなことが多い気がします。

なんか、さっきもダイヤグラムとかの話しましたけど、本当にものは言いようで、どうとでも言えちゃうから、どうとでも言う言い方がうまくなってくるんですよ。今は割と言えちゃうんですよね、うまいこと。いいのか悪いのかわかんないですけど、言えちゃうようになりましたね。

森田|

それでも周りの人は結構納得しますよね。

垣内|

逆になんかどっちが正しいとかって多分ないから、面白い方が良いんちゃう?だから、今日のレクチャーでこうするんやったら、違うレクチャーでまた違うこと言うとか。

学生|

うまく言えてしまうことの弊害ってどういうところなんですか。

甲斐|

本質的に考えていたことじゃないようなことを、さも、そのように言ってしまっているのではないか、っていう 感じですか。「本当にそう思ってやってたっけ」みたいなことをすらすら言えるようになっちゃうっていうか、言えるんですよ。そういうのが、本質的じゃないかもしれないと思いながらも。意識的になんかどっちを取ってるって感じもないんですけど、無意識に説明とかをしてる時に、ポリティカルコレクトネス的に正しく言っちゃうみたいなところはありますね。

でも、今の時点ではですけど、自分は一緒に制作する人たちが、基本的には自分の人となりとか、どういう制作をしてて、とかを理解してくれている方がほとんどなので、 今のところそこに対するストレスはそんなにないんですけど。普通に話して、普通に理解してもらえて、みたいな。

ただ、それがそうではない第三者、一般的に言うクライアントみたいなところに広がっていくと、そうはならなならないんだろうなっていうことが、やっぱりあって、もどかしさを感じる時がありますね。

建築家の乾久美子さんに一度、そのことを学生時代に相談したことがありました。そしたら、「100言ってることのうち、1だけでも、本当にやりたいことを言えて、それが実現できてればいい。そしてそれを100個やればいい。ただその1は絶対に手放してはだめだよ」っていうのを言われて、それはずっと残ってますね。それを 失ったら終わるというか、どんどんなんかいろんな理由でいろんなことができなくなるけど、これだけはっていうところは絶対に譲っちゃダメでっていう。

だから、そこに自覚的になれなくなったら、終わりだなっていう感じですね。合理的に話す癖がつくうちに、そういうところもぽろぽろぽろぽろこぼれていくようだともう終わりですね。そしたらリタイアして、陶芸をはじめたいと思います。